しんしんと、雪が降っております。
雪を見ると長野のお祖母ちゃん家を思い出す。こういう時の僕は、やっぱり土着性の強い日本人だなと思います。
熱いお茶をすすってお喋りしたり、温泉に入って蕎麦を食べるくらいしかすることのない田舎ですが、朝の寒さや雪の眩しさを感じると心を洗濯されたような気分になります。
ふだんはとても便利なところにいて、情報の流れも速くビュンビュン時間が過ぎている。
自覚はないものの、時代に付いていこう、波に乗ろうと気をすり減らしてるんだろうな。
人間はどこまで行っても人間です。 環境について学んでると、そう思う。
科学は発達し、生活の上で自然に生かされてるなんて感じることは少ないけれど、基盤にはあくまでも生物の営みがある。 これは絶対に切り離せず、人間も生物相内で生かされている存在にすぎない。 これが自然です。
歳をとったら、いつかは田舎暮らしがしたいなぁと考える。
でも今は情報の早い、気をすり減らすところに身を置いておきたい。時代の流れを感じ、成長し続けていたい。 生物という観点から考えると、こういった社会はとても不自然な場だろうと思う。
そこに身を置くからこそ、考えるという自然な営みを大事にしなくてはいけない。
生物は、自分の中の発達した感覚器官を通じて情報を得、そこに反応するものだ。
アメンボは水面の振動によって水面に落ちた餌を見つけ、食事をし、交尾の相手を見つけ、生き続けている。
彼らは触覚が発達し、振動という現象を「餌がある」「雄がいる」という情報に変換させて行動を起こす。
現代の人間は違う。感覚器官を使わなくてもすでに情報が氾濫しているため、「現象を情報に変換する」というステップがなくても生きていける。
情報だけ独立して存在していると、感覚器官を働かせなくても感じた気になってしまう。結果、自らの感覚器官は退化し、現象を感じ取れず、情報を生み出せない。そういうことを続けていると、誰かの考えを聞かなければものごとを判断できない生物になってしまうのではないかと思う。
僕らは何か情報を得て、それについて話すことが多いが、(情報がない)田舎に住んでいても話が面白い人はたくさんいる。
田舎の人は自分で現象について考えている。だから話が面白いんじゃないかと思った。
雪の冷たさ、音、味、手触り。
今日くらいは寒くてもいいかな。と思った朝でした。
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